あれは蝉の鳴き声が辺りに響き渡っていた、ある夏の暑い日のこと。

 

当時、私はクーラーの効いた快適な空間で、
退屈な大学受験勉強からの現実逃避にふけっていた。

 

こんな脳内での自問自答を繰り返しながら・・・

 

Q1.何故、こんな下らない勉強をしなければならないのか?

A.一流大学に合格するため。

 

Q2.何故、一流大学に合格しなければならないのか?

A.一流企業に就職できる。

 

Q3.何故、一流企業に就職しなければならないのか?

A.多くの給料、お金が手に入るようになる。

 

・・・そう、結局は世の中「お金」なのだ。

 

綺麗事抜きに、この資本主義社会では金こそが全て。

 

勿論、「お金が全て」と言い切ってしまうのは、
若気の至りが過ぎた、いささかの暴論に思えるかもしれないが、

 

それでも、人間という生物が衣食住を始めとした「欲望」を持ち、
あらゆる欲望を発散し続ける事で「幸福」を得ようとする動物なら、

 

やはり、その欲望の発散や幸福の追求のためには、
少なからず、物質的なモノや精神的なサービスが必要になるから、
それらの交換手段となる貨幣が必須になってくるのは自明の理であろう。

 

まぁ、貨幣にその交換手段としての価値がなくなるといった、
資本主義社会の崩壊が訪れれば、その限りではないが、

 

そんな特例を除いてしまえば、
結局、世の中「お金」が全てを握っているという事実に変わりはない。

 

実際、この日本という資本主義社会で提供される全てのモノやサービスは、
たかがコインと紙切れを適切に差し出すだけで100%享受できるのだから。

 

生きがい?愛?友情?異性?健康?魅力?

 

そんなものは「お金」に満たされてから初めて考えるべき話だ。

(それらもある程度のレベルまでは「お金」で買えるが・・・)

 

確かに、それら全ては決して「お金」で買えるものではないが、
そもそも「お金」に不十分な貧しい経済状態であれば、
愛や友情なんかで悩むレベルにすら立てないだろう。

 

全くの一文無しなら、生きがいもクソもない。

 

つまり、「お金」は私達の「全て」における大基盤なのだ。

 

そういった意味で、

 

結局、世の中、「お金」が「全て」・・・

 

最後はこの結論に至りながら、私はふと思った。

 

 

そうか・・・

 

いくら「全て」を握っているとはいえ、
私は「たかがコインと紙切れごとき」のために今まで生かされていたんだ。

 

現に、今の今までソレを何とか得ようと奮闘していたではないか。

 

つい最近まで、国に敷かれたレールの最終目的地、
「一流企業」に就職して多くの給料を頂く事を目標に、
一生懸命ペンを握って机にかじり付いていたのは誰だ。

 

まさに、過去の自分だったではないか。

 

しかも、この束縛感は就職後においても更に増していくだろう。

 

・定量的な給料制度

・長時間の肉体的な拘束

・上司による精神的な圧力

・常に存在するリストラの可能性

・従わなければ即クビの命令絶対主義

 

就職する企業にはこれらの特徴が潜在的に備わっているのだから、
これを社畜奴隷養成所と言わずして何と呼べば良いのだ?

 

何故、「たかがコインと紙切れごとき」のために、
たったの一度しかない私の貴重な人生の全てを捧げなければならないのか。

 

今も、そして、これからも。

 

「はぁ・・・。」

 

今までこんな簡単な事実に気付かなかった自分を呪いながらも、

 

私はある確固とした決意を胸に宿した。

 

だったら、そのコインと紙切れを限界まで稼ぎ尽くしてしまえば良い・・・と。

 

1000万だろうが、1億だろうが、10億だろうが、
一切お金に束縛されない境地にまで到達してしまえば、
一瞬にして、こんな下らない悩みなど消え失せるはずだ。

 

高級品やブランド物に恵まれた豪遊生活などはどうでもいい。

 

少なくとも、お金に手足を縛られ続けるような、
「不幸な人生」からは解放されるはずだろう。

 

そのためなら、どんな困難や苦痛も厭わない。

 

何だって、やってやるよ。

 

こうして私は、無造作に開かれていた数学のテキストを閉じ、
インターネットビジネスへの道に足を踏み入れるのであった。

 

(第1章へ続く)